縁起

長福寺略縁起

寿智山玉亀院長福寺は、後奈良天皇の天文九年(一五四〇)、三休上人によって開かれた霊地であり、三休上人と毛利元就公との歴史的な出会いのあった、エピソードをもつ寺院として知られています。

三休上人は安濃郡山中村(いま大田市富山町)の重蔵山城城主、富永山城守元保公の三男として出生、幼名を乙寿丸といい、享禄三年(一五三〇)十三歳のとき、大本山清浄華院(京都)へ入山し、第二十六世、寿光上人の薫陶をうけられました。

天文八年(一五三九)、橘と申されたお母さんの病没に会い、その死を悲しんだ上人は、翌九年、二十三歳で故郷の土を踏み、安濃郡波根東村(波根町)上川内、長福寺谷で、当時廃寺となっていた長福寺を草庵として、専修一行念佛に励まれました。

三休上人は永禄元年(一五五九)、四十二歳のとき本山清浄華院の第二十八世として迎えられましたが、老齢の父、元保公の懇望で、同九年には、清浄華院を隠居し、再び故郷の人となり、長福寺の開山となられました。三休上人は、元亀元年(一五七〇)四月二十七日牛の刻、遷化。世寿五十三歳でした。法名は、満蓮社定誉上人円阿放光三休大和尚

上人の入寂を知った人々は、声をあげて泣き悲しんだと伝えています。長福寺は三休上人の入寂以来第二十四世、西村昭仁・現住職まで歴史ある寺として栄えて来た。また客殿には近代南画の第一人者、西晴雲画く衝立や襖等々数多くの作品が残されて居り、寺を訪れる人々の心をなぐさめている。

平成九年一月一日
長福寺第二十二世西村寂龍
第二十四世西村昭仁

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