長福寺について

寿智山玉亀院長福寺は、後奈良天皇の天文九年(一五四〇)、三休上人によって開かれた霊地であり、三休上人と毛利元就公との歴史的な出会いのあった、エピソードをもつ寺院として知られています。

寿智山玉亀院長福寺は、後奈良天皇の天文九年(一五四〇)、三休上人によって開かれた霊地であり、三休上人と毛利元就公との歴史的な出会いのあった、エピソードをもつ寺院として知られています。

毛利元就と三休上人

石見に逃れる元就

NHKは大河ドラマで「毛利元就」を取りあげ、身近な感動から、島根県でも元就ブームが湧きおこっている。その元就は大田市波根町の長福寺(浄土宗)に、生涯忘れられない思い出を残している。

天文十二年(一五四二)二月、四万の大軍で尼子氏の本拠地出雲の富田城を包囲した大内義隆は、作戦の失敗から五月七日、全軍が総崩れとなって退却した。
元就は大内の重臣、陶晴賢の軍と合流して、宍道湖北岸を石見を目指して撤退し、八日夕刻には簸川郡口田儀から仙山峠を越え波根東村にたどりつき、ほっと一息ついた。追っ手の心配がなくなったので、元就の家臣が人家を探し小さな草庵を見つけて宿泊を頼んだ。元就は草庵の若い僧侶を見て、田舎寺の若造くらいにしか思わなかったのではないだろうか。

三休上人との出会い

享保二年(一七一七)毛利の家臣、香川正矩がまとめた「陰徳太平記」は、数行ほどだけれど、この部分について次のように書いている。
「元就は羽根の満蓮社に四、五日逗留して、落散りたりし軍勢を待ち揃え給ひけるに、彼の住僧、元就を行く末は中国の大将に成り給べしやと見たりけん、矢違の守、数代待ち傅へたりと進ぜければ、元就、老僧の志の程を感悦し給ひ、禄など賜りてけり」(原文のまま)
満蓮社とは、いまの波根町砂山の長福寺のことである。そのころの長福寺は上川内の長福寺谷にあった。長福寺の住職は三休上人といい、陰徳太平記は「老僧」としているが、このとき三休上人は二十六歳、元就は四十七歳だった。

三休上人は、近くの山中村(いま富山町)の重蔵山城城主、富永元保の三男で、享禄三年(一五三〇)十三歳のとき浄土宗の本山、清浄華院に入って修行していたが、お母さんの橘が亡くなったところから、不孝の罪を詫びながら、天文九年(一五四〇)に帰郷し、天台宗の廃寺だった長福寺を補修し、念佛三昧の日々を送っていた。
三休上人は本山で学び、学識にすぐれ、霊能力も備えていたらしい。
元就をまじまじと見つめ、過去現在をズバリと見通したほか、やがては中国地方のすべてを手中にされる御大将の相があるといい当てられたときに、負け戦で元気をなくしていただけに、元就は嬉しかったのに違いない。
ここで数日間滞在し、出発する元就に、三休上人は「矢違いのお守り」を贈っている。
矢違いとは、敵の矢が身体にあたらない、いまでいえば交通安全のお守りを連想させられるが、三休上人が一体ずつに念力をこめ、祈願をしたお守りで、のちに元就は石見銀山の山吹城を攻めたとき、危うく命を落とすところを、このお守りで助かったというエピソードもある。

満蓮社とは、三休上人の没後に贈られた諱(いみな)である。伝聞によると、長福寺では太平洋戦争のころまで、矢違いのお守りの伝授があり、戦場でのふしぎな話が伝えられている。
元就は川合から川本に出て、安芸の吉田へ帰っているが、波根東村の旭山城主、波根泰連や川本の温湯城主、小笠原長徳は、それぞれ元就の軍勢に食料を送っている。
なお元就とともに石見へ落ちのびた陶晴賢は、刺鹿村の鰐走城で野営し、かがり火をたいて遅れて来た将兵をまとめたのち、浜田まで出て、ここから船を雇って山口を目指した。

三休上人とは

浄土宗の総本山は知恩院だが、大本山として金戒光明寺(京都)、知恩寺(京都)、増上寺(東京)、善導寺(福岡)、光明寺(鎌倉)、善光寺(長野)があり、清浄華院も大本山の一つで、京都御所内にあった。三休上人は清浄華院で嘱望されていた名僧だった。永禄元年(一五五九)には迎えられて清浄華院の二十八世の法主になっている。四十二歳だった。
父の富永元保は、三休上人が去った老齢のさびしさから頻りに帰郷を促し、三休上人は孝養を尽くしたい一念から、六年後の永禄九年、法主の座を退き再び故郷の土を踏んで、長福寺に住し開山上人となり晩年を過ごした。

一方の毛利元就は、周防の大内氏が陶晴賢のクーデターで滅んだのち、陶氏を厳島で討ち、出雲の尼子氏と対決することになった。
永禄五年六月には、石見銀山山吹城の開城に成功し、軍を出雲に進め、広瀬の富田城を長期戦で攻め、永禄九年十一月には遂に尼子氏は滅亡する。
元就はかつて、大内義隆の出雲攻めの軍に加わり、大内軍のみじめな敗戦を経験しており、この教訓を生かして兵站線を確保し、松江の洗合に本陣を置いて、四年がかりの粘り強い包囲網で、尼子氏を屈服させた。

元就と三休上人の再会

永禄十年二月、元就は出雲大社へ参拝して、戦勝のお礼参拝をしたのち、思い出の石見へ足を踏み入れた。二十五年前、長福寺の三休上人が、「やがては中国の大将に成り給うべし」と告げた、あのときが胸をよぎった。堂々の軍勢が長福寺を訪れ、元就と三休上人はドラマチックな再会をした。
お互いに胸がつまり、感動に目をうるませた。元就は七十一歳、上人は五十歳になっていた。元就は、「あのとき、うちひしがれていた私が、あなたに出会ったことで、とても勇気づけられた」元就は思い出をかみしめながら、上人の手を握り、寺領として八町四方の農地を寄進し、着ていた陣羽織をぬいで、記念とお礼をこめて贈った。

昔の長福寺には、元就が鎧を掛けた黒松や、手を洗った池があった。元就はその黒松と、庭の池を和歌にあらわして残した。

草ずりの糸ながかれと千代かけて 祈る心は松ぞしるべき 濁りなき庭の池水そそぎては 心の垢穢を残らざりけり

元就の陣羽織は法衣に仕立て直され、福田衣と名づけ、矢違いのお守りの修法を行うときに、着用が行われていた。いまは長福寺の宝物として来観者の人気の的になっている。

郷土史家 石村勝郎

寺宝

福田衣(ふくでんね)

福田衣(ふくでんね)

永禄10年(1567年)尼子を滅ぼした元就が安芸吉田に凱旋途中に長福寺に立ち寄り、元就と三休上人は24年ぶりに再会を果たすこととなる。
その際に、元就より着用の陣羽織を与えて謝意を顕したとされる。
この元就の陣羽織を後に法衣に仕立て直し、福田衣として現在も寺宝として残した。

矢違いのお守りの判木(やちがいのおまもりのはんぎ)

矢違いのお守りの判木(やちがいのおまもりのはんぎ)

天文12年(1543年)広瀬月山城の尼子氏に敗退した毛利元就が長福寺に立ち寄った際、三休上人より元就に、「将来は中国地方を手中にされる総大将になる」と励まし、このよき戦の難を逃れる(矢にあたらない御呪いの符)お守りとして三休上人が念を込め祈願し贈られたもの。
判木本体は現在非公開となっています。

腹籠もり地蔵尊(はらごもりじぞうそん)

腹籠もり地蔵尊(はらごもりじぞうそん)

地蔵尊の中に小さなお地蔵様が入っています。
おなかの中にいらっしゃる様子から腹籠もり地蔵尊と呼ばれています。
現在でも安産祈願や帯祝いなどでお参りに来られます。
大田市の文化財に指定されています。

西晴雲の襖絵(にしせいうんのふすまえ)

西晴雲の襖絵(にしせいうんのふすまえ)

明治から昭和時代の日本画家西晴雲の昭和33年頃の作品。
西晴雲は島根県大田市出身 明治28年、島根県大田市に生まれ、幼時から絵画・彫刻を好み、単身修行に出る。彫刻から絵画に転向した後、中国に渡り、第2次世界大戦終結までの30年間、絵、書、陶磁器の染め付けの技法を学ぶ。
晴雲作品の色彩と中国の風景描写そして書には、他の日本人南画家を寄せつけない独自の力量と境地が明確に感じ取れる。
昭和38年没

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